GoogleやAmazonのような大手IT系企業と異なり、製品メーカーであるNIKEの製造現場ではリモートワークの導入は困難です。
工場で働く従業員は、大量のNIKE製品を製造するために毎日出勤しなければならないため、NIKEには出社を基本とした従業員エンゲージメントが求められています。
世界最大のスポーツ用品メーカーNIKEは、どのようにして従業員の心を掴み自発的なやる気を醸成しているのでしょうか。
今回は、世界中に契約工場を持ち100万人以上の労働者が従事する、NIKEの従業員エンゲージメント戦略についてレポートしました。
NIKEについて
NIKEの前身となるBlue Ribbon Sportsは、オレゴン大学在学中に陸上選手として活躍していたフィル・ナイト氏が、当時の陸上コーチのビル・バウワーマン氏と共に創業しました。
「Puma」や「Adidas」がスポーツ用品では世界を席巻していた1960年代に、高品質・低価格のオニツカタイガー(現、アシックス)のシューズに惚れ込み米国の販売代理店を獲得し、その販売活動のために設立されたのがBlue Ribbon Sports。
その後、オニツカの高度な技術を吸収した彼らは、1971年にオニツカタイガーとの提携関係を解消し、NIKEブランドを立ち上げ世界最大のスポーツ用品メーカーへと成長させました。
社名の「NIKE」はギリシャ神話に登場する翼を持った勝利の女神ニケを英語読みしたもので、ブランドのトレードマーク「Swoosh(スウッシュ)」も翼を広げた女神ニケの素早い動きをイメージしてデザインされてものです。
会社概要
- 社名:Nike, Inc.
- 社長兼最高経営責任者(CEO):ジョン・ドナホー
- 設立:1964年
- 従業員:約73,300人(2021年5月31日時点)
- 本社:米国オレゴン州ビバートン
- 拠点:世界の170カ国以上に小売店と販売店を持つ
- 主要ブランド:NIKE、Jordan、Converse、Hurleyなど
沿革
1964年 Blue Ribbon Sports として設立された。
1971年 Nikeブランドのシューズを発売
1972年 最初の代表作Nike Cortezを発売
1978年 社名をNike, Inc. に変更
1980年 米国のスポーツジューズ市場で50%のシェアを獲得、12月に株式を公開
1984年 Michael Jordanと「Air Jordan」の製造・販売について契約
1985年 Air Jordan 1 発売
1988年 高級靴会社Cole Haan社を買収
1994年 Bauer Hockey社を買収
1995年 Air Max 95 発売、世界的なブームとなる
1996年 Tiger Woodsとスポンサー契約締結
2003年 Converse社を買収
2008年 英国Umbro社を買収
2017年 Cristiano Ronaldoとスポンサー契約締結
業績の推移
経営者のプロフィール
共同設立者のフィリップ・ナイト氏は1968〜1990年(1983年6月〜1984年9月は除く)及び2000年6月〜2004年までNIKEの社長を務め、その後名誉会長となっており、現在の社長兼CEO(最高経営責任者)はジョン・ドナホー氏が就任。
彼は、NIKEに参加する前はServiceNowとeBayの社長兼CEOを務め、現在もPayPalの会長を兼務しています。元バスケットボール選手で生涯スポーツファンだったジョンは、スタンフォードビジネススクールでMBAを取得し、ダートマス大学で経済学の学士号を取得しています。
彼は、米国のミネソタ州でアフリカ系アメリカ人ジョージ・フロイド氏が白人警官の膝で首を絞められ死亡した事件を受け、人種差別と社会的不正に対して行動を起こすよう要請するメッセージ動画をいち早く公開し、4年間にわたり4,000万ドルを黒人コミュニティや取り組みへ寄付することを発表しました。
NIKEの福利厚生
NIKEが直接雇用する約73,300人の従業員に対する福利厚生には次のようなものがあります。
転居・移動
新しい街へ転居する、あるいは単にNikeキャンパスの反対側に引っ越すときでも、距離にかかわらず従業員が目的の場所に移動するためのサポートを提供。
全員にぴったりのフィットネス
フィットネスの初心者から上級者まで、すべてのレベルと目標に適したフィットネスの機会と割引料金を提供。
経済的健全性
従業員の将来の財政的な目標達成に役立つ、競合他社を上回る給与体系と堅実な退職プランを提供。
休養リカバリー
一生懸命働くからには一生懸命遊ぶ時間が与えられるべきという考えに基づき、有給休暇、夏季休暇、および夏季短縮期間を提供。
継続的学習
従業員のキャリアの開発・育成のために、さまざまな教育プログラムを用意。
健康と幸福感
さまざまな生命保険とヘルスケアのパッケージで従業員をサポート。
社会貢献活動
奉仕活動のための時間や応じた報酬を提供し、ボランティアに取り組む従業員をサポート。
NIKEの報酬決定プロセス
NIKEは、熱心な労働力が成長と持続可能性のカギであると信じ、世界中のサプライヤーと協力して工場労働者の戦略的報酬の開発に取り組んでいます。これは、すべての従業員が本人や家族の生活を維持できる生活水準を実現しようとするものです。
具体的には、サプライヤーの従業員の賃金データー(法定最低賃金、国の貧困ライン、生活費の見積など)を収集し、公正な報酬を実現すると同時に、人材の確保・育成のための能力向上をサポートしています。
NIKEの従業員エンゲージメント戦略を考える場合には、このサプライチェーンの従業員を外しては考えられません。
Engagement and Wellbeing Survey
NIKEのシューズとアパレルの90%以上は、15年以上にわたり製造委託契約を締結している40ヵ国以上の工場(サプライヤー)で製造されています。
そのため、品質・生産性・収益性において高いレベルを持続させるためには、サプライヤーで働く100万人以上の工場労働者のエンゲージメントを高めなければなりません。
IT大手企業のように社内コミュニケーションメディアを持たないNIKEは、工場労働者のエンゲージメントなどの状況を測定するために、数年前よりEngagement and Wellbeing(EWB)調査を実施し、2020年度末までには対象範囲を13ヵ国64の工場385,000人の労働者まで拡大。
さらに、2025年までに戦略的サプライヤーの100%がEWB調査による科学的なエンゲージメントの測定と、その結果に基づく改善を目標に掲げ、次の3つの課題に取り組むとしています。
- EWB調査の拡大
- サプライヤー主導によるEWB調査
- サプライヤーと協力しEWB調査を人材政策に組み込む
※戦略的サプライヤーとは、シューズとアパレルの総生産量の約80%を占める完成品サプライヤーのこと。
Engagement and Wellbeing(EWB)調査とは
人材コンサルティング分野では世界的なリーディングカンパニーWills Towers Watsonの定義する従業員エンゲージメントは、「会社が成功するために、従業員が自らの力を発揮しようとする状態が存在していること」です。
そして、ウェルビーングとは「その人にとって究極的に善い状態、その人の自己利益にかなうものを実現した状態」のこと。
つまり、EWB調査とは、次の2点に対する従業員の意識と、プラス要因・マイナス要因を明確にするために行われます。
- 従業員が、自らの意思で会社の目標達成に向けて努力しているか
- 従業員が、現在の状態に満足しているか
EWB調査の最終的な目的は、サプライヤーが自社の労働者の「安全性」「ストレス」「経済的安全性」「幸福度」などに関する情報を収集・分析することによって、マネージャーが労働者をよりよくサポートし、良好なコミュニケーションを築きあげることです。
EWB調査の21の質問
EWB調査はNIKE用に開発されたものですが、他の製品メーカーが自社の従業員の状態を評価するのに非常に参考になるでしょう。
調査内容は、「16のコンテンツの質問」と「5つの人口統計の質問」の合計21の質問から構成されており、回答は匿名で次の7つの中から選択します。(回答せずにスキップすることも可能)
- まったくそうは思わない
- そうは思わない
- ややそうは思わない
- どちらともいえない
- ややそう思う
- 同意見だ
- 全く同意見だ
16の質問
- 過去12か月で、将来より良い仕事を得るのに役立つスキルを学びました。
- この工場は、従業員の意見を聞くために大変努力しています。
- 職場で課題に直面した場合、上司はその解決を手伝ってくれません。
- 私の仕事に関連するストレスは許容範囲内です。
- 私はよく病気になります。
- 家族の経済的要求に応えることができます。
- 私が所属する職場は、私の健康に悪い影響を及ぼします。
- 上司が私を大切に思っていることがわかります。
- 職場では、私は「公平」と「敬意」を持って扱われます。
- 私がここで働くことを選んだ理由の1つは、他の人に比べて高い賃金を受け取っているからです。
- セクハラや性的接触は、工場の労働者にとって懸念事項ですか?
- 私は上司が日常的に安全について話すのを聞きます。
- 私は工場の改善について提案をすることには抵抗がありません。
- 目標がどのように設定されているかを理解しています。
- 生産現場では、管理職以外のメンバーと良く会います。
- 仕事において良い友達を持っています。
人口統計上の5つの質問
- あなたの性別は?
- あなたの職務は?
- この工場でどのくらい働いていますか?
- 既婚、独身、未亡人などの状況は?
- 何人があなたの収入に依存していますか?
※NIKE’s Engagement and Wellbeing Surveyの原文
NIKEの2025年に向けたエンゲージメント戦略
製造業であるNIKEの従業員エンゲージメント戦略は、世界トップクラスの「労働安全衛生」を実現した上で成り立つものです。
そのため、NIKEは2025年に向けて「戦略的サプライヤーの100%が、製品を製造する人々のために世界トップクラスの安全で健康的な職場を構築する」という目標を掲げ、達成するためには次の5項目の実現が必要としています。
⒈ 世界トップクラスの安全で健康的なワークスペースを構築する
世界トップクラスの健康で安全な職場を実現するために、今後5年間は戦略的サプライヤーの工場内で健康と安全の成熟した文化を発展させるための投資を増加する。
⒉ サプライヤーの安全プログラムの成熟度を測定する
安全性の成熟度を評価するツール(Culture of Safety Maturity Assessment)によって、工場が良好に機能している領域と改善できる領域を明らかにし、改善できる領域に対してはロードマップを作成し実行する。
⒊ 自己評価を奨励する
従業員エンゲージメントを強化するために、自己評価ツールの使用方法に関するオンライントレーニングを開発。2020年度時点で156社の工場およびサードパーティのコンサルタントがオンライントレーニングを無事に修了。自己評価は、訓練を受けたサードパーティのコンサルタントやNIKEスタッフがサポートし、結果は労働者/管理者の安全認識調査で調整される。
⒋ 外部の専門家と協力する
サプライチェーン内および業界全体で健康と安全の文化を高め続けると同時に、他の人と協力して一般的な労働安全衛生の問題を解決し、世界トップクラスの安全で健康的な職場をグローバルに構築するための戦略を加速する。
⒌ リーダーの能力開発プログラムを試験的に実施する
戦略的サプライヤーと協力し、リーダーの能力開発プログラムを試験的に実施し、サプライヤーの文化、言語、業界のニーズなどに合わせたプログラムの調整・カスタマイズを行い、成功した場合は他の製造サプライヤーグループ全体に拡大する。
まとめ
NIKEのホームページには、何度も「World Class(世界トップクラス)」の言葉が使用されています。これはNIKEがトップ企業として正しい方向に業界をリードしなければならないという責任感に基づくものと考えられます。
自社の従業員の他に100万人を超えるサプライヤーの従業員がNIKE製品を支えていることから、彼らに対する世界規模のエンゲージメント戦略を実現するために、徹底的な「賃金調査」や「EWB調査」などの実施によってデータを収集・分析し、必要に応じて外部の専門家のサポートを受けています。
全ての企業がNIKEのような大規模な調査・分析を行うことは難しいと思いますが、製造業の根幹は従業員の労働力にあるという基本は同じです。NIKEが行っている壮大な戦略は、エンゲージメント強化のためには「徹底的に従業員と向き合う」ことが最も重要であると示唆しているのではないでしょうか。